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東京地方裁判所 昭和26年(行)27号・昭22年(エ)48号 判決

原告 内藤章

被告 東京都農業委員会・田無町農業委員会

一、主  文

別紙第一目録の土地について、被告の田無町農業委員会(昭和二十六年法律第八八号農業委員会法施行前は田無町農地委員会、以下同農地委員会を指すときも被告田無町農業委員会と呼ぶ)が昭和二十二年六月十七日に定めた農地買収計画および被告東京都農業委員会(前記法律施行前は東京都農地委員会、以下同農地委員会を指すときも被告東京都農業委員会と呼ぶ)が、右買収計画に対して原告がした訴願を、昭和二十二年八月十八日附で棄却した裁決は、いずれもこれを取り消す。

原告のその余の請求(昭和二六年(行)第二七号事件の請求)は、いずれも棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の負担、その四を被告等の負担とする。

二、事  実

原告訴訟代理人は、昭和二二年(ヱ)第四八号事件について、主文第一項同旨および「訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決を昭和二六年(行)第二七号事件について、「被告田無町農業委員会が昭和二十三年六月十九日に、別紙第二目録の土地について定めた買収計画および、被告東京都農業委員会が、右買収計画に対して原告がした訴願を、昭和二十五年十二月十九日附で棄却した裁決は、いずれも無効なることを確定する。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として、また被告等の主張に対して、次のとおり述べた。

昭和二二年(ヱ)第四八号事件について。

別紙第一目録の土地は、いずれも原告の所有に属する。被告田無町農業委員会は、昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとづき右土地を不在地主の小作地なりとして、昭和二十二年六月十七日右土地に対しいわゆる遡及買収計画を定めた(以下第一の買収計画と呼ぶ)。しかし右第一の買収計画は、次の理由によつて違法なものである。

(一)  第一の買収計画については、適法な公告がされていない。被告田無町農業委員会は、右買収計画を定めたとき、遅滞なくその旨を公告すべきであるのに、これをしなかつた。

(二)  第一目録の土地は、自作農創設特別措置法(以下自創法という)の適用上買収の対象たるべき農地ではない。右土地はもともと芝生栽培地ないしは茶園であつて、畑ではなかつた。それを今次の戦争中、食糧増産の必要上やむを得ず、一時的に畑として使用したことがあつたにすぎない。それは、戦時中住宅地あるいは庭園の一部に農作物が作られていたのと同じことであり、一時的に農耕地として使用したことがあるからといつて、本来の畑地でない土地を農地として買収することは許されない。

(三)  原告はいわゆる不在地主ではない。原告は昭和十年六月中、本件土地に永住する目的で、第一および第二目録の土地と合せて、その周辺の数筆の土地と現在住んでいる田無町八二六番地の家屋(以下本件家屋と呼ぶ)とを買い受けて、ここで結婚式を挙げ、ここに新たな人生の基礎をきづいたのである。原告の夫は外交官であつたので、その後間もなく原告は夫とともに海外に出たが、昭和十七年に帰国し、昭和十八年になつて再び本件家屋に生活の本拠をかまえた。しかるに当時は今次大戦の最中であつて、空襲が次第にはげしくなつたので、幼児をかかえた原告は他に疎開することを余儀なくされ、一時神奈川県下に疎開していた。終戦後直ちに本件土地に帰ろうとしたが、原告所有の本件家屋には、原告が本件土地家屋の管理を託していた後藤丑太郎一家と、後藤が原告に無断で入れた戦災者、疎開者等十六人の人々が住んでいたため、すぐにはそこに移り住むことができず、昭和二十一年五月二十一日になつてようやくその明渡を受けて本件土地に帰ることができ、同年十一月二十一日転入手続を終えた。原告は本件土地に帰るや直ちに、牛馬各一頭を使つて本件土地の一部を耕しはじめ、精農家にも劣らぬ努力をしたので、現に一家の生計を維持するに十分な農業成績を挙げている。

また原告は、終生本件土地に住むつもりであつたから、神奈川県下に疎開中も、本件土地の地元の人々と同様に、部落の神社、学校等の寄附金や消防費等を納めていた。

かように原告はやむを得ず一時本件土地から離れていたのであつて、本件土地を住所地とする原告の意思にかわりはなかつたのであるから、遡及買収の基準日たる昭和二十年十一月二十三日当時原告が本件土地で現実に起居していなかつたところで、そのことは、原告が昭和十八年以来本件土地に住所を持つていたとみることを妨げるものではない。右基準日当時原告は本件土地の不在地主ではなかつたというべきである。

(四)  本件土地は小作地ではない。本件土地の遡及買収を申請した後藤新吾の亡父後藤丑太郎は、原告の使用人として本件土地を管理していたにすぎず、本件土地の小作人ではなかつた。

もと原告は本件土地を終生の居住地とするために買つたのであり、また将来はその周囲の土地を分譲住宅地として発展させようと計画していたので、本件土地を買い受けるにあたり、いわゆる小作離れをさして、それまで本件土地を小作していた者との関係を絶ち、丑太郎に本件土地家屋の管理を託したのである。丑太郎が本件土地の前所有者当時の小作人であつたとしても、ひきつづき新所有者たる原告との間で小作人であつたのではなく、新たに原告と小作契約を結んだのでもない。

原告は本件土地を買い受けた後、これを茶園および芝生として経営して来た。そのために、原告およびその父母等所有名義の東京都南多摩郡調布町国領、同郡飛田給、東京都目黒区等にある土地家屋の管理、樹木、芝生の栽培、納税の処理等を丑太郎に命ずるとともに、本件土地での芝生、茶の栽培、本件家屋の管理等を丑太郎に命じたのである。その実情は、丑太郎が原告の父内藤熊喜の指示を受けて、茶園の摘取、刈込等の維持手入をし、芝生の植付、施肥、刈込等を行い、また本件家屋及び庭園の手入等に従事して、これらに要した費用はすべて原告方で負担していた。例えば、丑太郎が本件土地の管理上、人手を必要とするときは、原告の費用で人夫を傭い入れたことはもちろん、丑太郎自身およびその家族が働いたときでも、原告はこれに対して日当を支払つていた。他に丑太郎に対する報酬として、本件家屋の一部に無償で住まわせるとともに、本件土地中八〇五番地のうち一反歩を無償で使用させて来た。かように丑太郎は原告のために本件土地家屋の維持管理に当つていた原告の使用人にすぎない。そして原告は丑太郎の長男後藤新吾とも、本件土地の小作契約をしたこともない。

今次戦争中、食糧事情が悪くなつたため、本件土地を一時的に畑にかえたからといつて、そのために原告と丑太郎との右の関係がかわつたとはいえない。この点についてはなお、丑太郎方では昭和二十年三月頃までに本件土地全部の開墾を終えたのではなく、その後になつて芋畑等にかえたのである。本件土地中八〇六番地の一部五畝歩位の土地は、昭和二十二年三月頃までは芝生のまま残つていた。

また原告は丑太郎を本件土地家屋の納税代理人として届け出ていたのであるから、丑太郎が原告に代つて納税して来たことは当然であり、請求あり次第原告はその精算に応ずるつもりであるから、代納税金を以て本件土地の小作料とみることは許されないことであるし、また原告は丑太郎父子から本件土地の小作料として作物を受け取つたこともない。

丑太郎父子は原告の要求にかかわらず、数年来本件土地家屋の管理費用の精算に応じていないけれども、そのために本件土地についての原告と丑太郎との間の法律関係が変つたとみることも許されない。

かようなわけで、本件土地は、遡及買収の基準日当時小作地であつたということはできないのである。

(五)  仮りに遡及買収の基準日当時原告が不在地主であり、本件土地が小作地であつたとしても、本件は遡及買収を相当と認められる場合にあたらない(第一次改正前の自創法附則第二項)。

さきに述べたように、原告は本件土地に永久に住むつもりで本件土地家屋を買つたのであり、現在もその意思に変りはない。原告はやむを得ざる事情で一時神奈川県下に疎開したのであつたが、自創法施行前の昭和二十一年五月中本件土地に帰つて来るやただちに、丑太郎が耕作していた本件土地の一部を返してもらつて、牛馬各一頭を使つて耕作をはじめ、精農家にも劣らぬ実績を挙げている。原告は本件土地の耕作能力を十分持つている。

本件土地が小作地なりと認められるとしても、原告と丑太郎との間のさきに述べたいきさつから考えて、新吾が遡及買収の請求をすることは相当でなく、また本件土地が畑にかえられたときから、丑太郎ないし新吾と原告との間に暗黙の間に本件土地の使用貸借関係が成立したとしても、自作農が疾病その他の事由によつて、自ら耕作の業務を営むことができないため、一時当該自作地を他人の耕作の業務の目的に供した場合(自創法第五条第六号)に準じて考え、被告田無町農業委員会は、原告が近く本件土地を自作するものと認め、かつその自作を相当と認めるべきであつたのである。

他方後藤新吾は、本件土地の外約一町歩の土地を自作しているほか、中野和雄の所有地約一町五反歩を耕作している。

のみならず、本件土地は近い将来に当然住宅地として発展する可能性ある土地であつて、近くその使用目的を変更することを相当とする土地なのである。

右の諸事情を合せ考えると、本件土地について遡及買収計画を定めることは相当でないと認むべきである。しかるに被告田無町農業委員会が遡及買収計画を定めたことは、この点の認定を誤つた違法な処分である。

以上いずれの点からしても本件第一の買収計画は違法であるから、原告はそれが定められたことを知るや、ただちに(第一の買収計画の公告はなく、従つてその縦覧期間は不明であつた)、被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが棄却されたので、昭和二十二年七月二十八日被告東京都農業委員会に訴願したところ、同委員会もまた本件土地を不在地主の小作地なりと認めて本件第一の買収計画を維持し、昭和二十二年八月十八日附裁決で原告の訴願を棄却し、原告は同年九月四日裁決書謄本の送達を受けた。

本件第一の買収計画は違法であり、従つてこれを維持した被告東京都農業委員会の訴願裁決もまた違法であるから、いずれもその取消を求める。

昭和二六年(行)第二七号事件について。

別紙第二目録の土地も原告の所有に属する土地であるが、被告田無町農業委員会は、昭和二十三年六月十九日、昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとづき、右土地は不在地主の小作地なりとして遡及買収計画を定め(以下第二の買収計画という)、同日その旨を公告して、法定書類の縦覧期間を同日から同月二十九日までと定めた。原告はこれに不服で、同月二十九日被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが、昭和二十五年八月九日申立を棄却され、更に同年八月十八日被告東京都農業委員会に訴願したが、これも同年十二月十九日附裁決で棄却され、同月二十二日裁決書謄本の送達を受けた。しかし右第二の買収計画には次のようなかしがあり、無効たるべきものである。

(一)  被告田無町農業委員会は、昭和二十三年六月二十九日にした原告の異議申立について、縦覧期間満了後二十日以内に決定しなければならないのに(自創法第七条第三項)、当時再三委員会を開いて十分審議を尽していながら、決定を与えずに放置して二年余を経過した昭和二十五年八月九日になつてようやく申立を棄却する旨の決定をした。その間に農業事情には甚しい変化が起り、原告は異議申立に対する決定がいつまでも与えられないので、被告田無町農業委員会が第二の買収計画を維持してその後の手続を進める意思を失つたものと考え、これを前提として多様な生活関係を築き上げて来た。自創法第七条第三項の定めが単なる訓示規定であるとしても、かように長い間異議申立に対する決定を与えずに放置することは許されないことであるし、被告田無町農業委員会が異議申立に対する決定の遅れた理由として挙げるところは、いずれも合理性に乏しい。

かような事情がある場合には、被告田無町農業委員会は、もはや買収計画にもとづいてその後の手続を進め、買収処分を完了させようとする意図を放棄したものと認め、第二の買収計画は効力を失つたものとして扱うのが相当である。

(二)  原告は遡及買収の基準日当時不在地主ではなかつた。

(三)  第二目録の土地はいずれも小作地ではなかつた。

右(二)及び(三)の理由の詳細は昭和二二年(ヱ)第四八号事件について述べたところと同じである。

かように第二の買収計画にはきわめて重大なかしがあり、そのかしは客観的に明白なものであるから、第二の買収計画は本来無効たるべきものであり、これを維持して原告の訴願を棄却した被告の裁決も無効たるを免れない。よつていずれもその無効確定を求めると述べた(立証省略)。

被告田無町農業委員会訴訟代理人は、昭和二二年(ヱ)第四八号事件について「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を、昭和二六年(行)第二七号事件について「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、次のとおり答弁した。

原告が昭和十年六月中買い受けて所有権を得た第一および第二目録の各土地について、被告田無町農業委員会が第一および第二の各買収計画を定めたことおよびその日時、第二の買収計画の公告の日およびその縦覧期間、右両買収計画に対して原告が被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが、いずれも申立を棄却されたこと(第二の買収計画についてはその各日時の点も)、更に原告が被告東京都農業委員会に訴願をしたが、それはいずれも棄却されたことおよびその各日時、各裁決書が原告に送達された日時、以上について原告の主張する事実は、いずれも認める。その余の原告主張の事実はすべて争う。

被告田無町農業委員会は、第一の買収計画を定めた昭和二十二年六月十七日、自創法の定めるところに従つて適法な公告をし、その法定の書類の縦覧期間を同日から同月二十六日までと定めた。したがつて第一の買収計画の公告手続に違法な点はない。

第一の買収計画の目的たる第一目録の各土地は、遡及買収の基準日たる昭和二十年十一月二十三日当時も、買収計画を定めたときも、畑地であつた。のみならず、芝生地や茶園といえども、耕作の目的に供される土地たることにかわりないから、自創法の適用上これらの土地を農地となすに何の妨げもなく、この点に関する原告の見解は誤つている。

本件第一および第二の買収計画は、昭和二十年十一月二十三日現在の事実を基準として定めた遡及買収計画であつて、次のとおり遡及買収の要件を備えたものである。

第一に、原告は右基準日当時不在地主であつた。原告は昭和十八年九月末頃まで東京都新宿区下落合一丁目三六七番地に住んでいて、同年十月頃から十二月頃まで約三カ月の間、本件土地に接続する土地(原告の現住所)にある本件家屋に一時居住していたが、その後は横浜市保土ケ谷区上川井町坂下谷八四三番地に住居を移し、同地で食糧その他の物資の配給を受けるとともに、右上川井町大貫谷、市坂等において水田一反五畝、畑五反四畝を自作して生計を立てていたし、他にも同町内に畑三、四町歩を所有していた。原告は昭和二十二年五月三十日に現住所に移転して来たのであつて、遡及買収の基準日当時原告の住所は右上川井町にあつたのであるから、当時原告は不在地主であつたと認むべきである。

第二に、本件各土地は右基準日当時小作地であつた。本件土地はいずれも、後藤新吾の亡父後藤丑太郎が原告の前所有者たる望月政友から賃借して耕作していた土地であつた。丑太郎は、本件土地中第一目録の八〇五番地、八〇六番地と、これに接続する八〇三番地の茶園二反六畝二十四歩(内南側四畝九歩は普通の畑)および八〇四番地の甲茶園二反七畝二十五歩(内南側三畝二十歩は普通の畑)のうち南側の角の部分五畝、合計八反一畝十三歩を、望月政友所有当時の大正十二年十月から、小作料一反歩につき年十円とし、期間の定めなく賃借していたのであり、更に昭和八年十月になつて、小峯七五郎が望月から賃借していた八〇七のロ、八〇八のロ(以上第一目録)、八〇七のロの乙、八〇八のロの乙(以上第二目録)の本件土地とこれに接続する八一八番地のロ四畝二十五歩(内二畝二十五歩は第一目録の本件土地)の畑および新倉平吉が賃借していた八二七番地のハ二畝十五歩の畑を、前同様の条件で賃借し、また昭和十年三月になつて、新倉平吉が賃借していた八〇四番地の甲のうち前記南側角の部分を除く二反二畝二十五歩と、八〇四番地の乙二畝十六歩とを、前同様の条件で望月から賃借して耕作していた。右の丑太郎が望月から賃借して小作していた本件土地およびその周囲の土地の総面積は、一町四反一畝一歩である。

原告は昭和十年六月に、投資の目的で本件土地を含む以上の農地全部と、八二六番地宅地八反歩およびその地上の本件家屋並びに、その周辺の九筆の土地を買い受けたのであつた。そして原告は、それまで丑太郎が小作していた前記の土地については、賃貸人たる地位を承継したのであり、右の周辺の九筆の土地は、それまで名古屋留吉、新井政太郎、原島重蔵、新倉平吉等が小作していたが、原告の父内藤熊喜はこれらの小作人を離作させて、丑太郎及び新吾にその全部を耕作させることにしたのである。

かように原告と後藤丑太郎との間には、はじめから本件土地について賃貸借関係があつたのである。そして本件土地の大半は、原告が所有者となつてから芝生栽培地に変えたのであるが、昭和十八年三月頃田無町農業会からの指示もあつて、食糧増産と丑太郎の生計維持の必要から、丑太郎が原告の承諾を得て開墾をはじめ、逐次普通の畑に変えて行き、昭和二十年三月頃までに開墾を終えた。その間丑太郎は開墾を終えた畑から収穫した大麦、小麦、裸麦、馬鈴薯等を、昭和二十年度までは自己名義、昭和二十一年度からは新吾名義で供出して来た。

そして丑太郎父子が右開墾をするに際し、本件土地の小作料額をきめてもらいたいと原告に申し出たのに対し、原告は父熊喜と相談の必要ありとして、そのまま小作料についてのとりきめはされずにいたが、丑太郎父子は、昭和十八年頃から昭和二十一年度までの原告の負担すべき公租公課(本件土地の地租及びその附加税、本件家屋の家屋税及びその附加税、農業会の賦課金等)を、小作料のかわりに原告に代つて支払つたほか、昭和二十一年六月中旬頃から同年十一月二十日頃までの間、相当数量の農作物(馬鈴薯、甘藷、押麦、貯菜等)を、本件土地の小作料として原告に納め、原告もその趣旨でこれを受け取つた。

一方原告は昭和十八年末頃から、横浜市保土ケ谷区上川井町大貫谷、市坂等で水田一反五畝と畑五反四畝余を自作するほか、同町内に畑三、四町歩を所有していて、本件土地を自ら耕作することは不可能であつたので、丑太郎父子に本件土地の耕作を一任していたのである。本件土地について小作料額の約定がなかつたからといつて、原告と丑太郎父子との間に本件土地の賃貸借契約がなかつたということはできないのであり、仮りに賃貸借契約がなかつたとしても、原告と丑太郎父子との間には、本件土地について使用貸借契約が成立していた、とみるのが相当である。この関係は遡及買収の基準日たる昭和二十年十一月二十三日当時もなお継続していた。

かように本件土地については、遡及買収の要件が備わつていたので、後藤新吾(当時は同人が主として本件土地の耕作に当つていた)から被告田無町農業委員会に対し、昭和二十二年五月六日附書面で、本件土地の遡及買収計画を定むべきことの請求があつた。そこで被告田無町農業委員会は事実関係を調査して遡及買収計画を定めるのが相当であると認め、まず本件第一の買収計画を定め、その後更に第二の買収計画を定めたのである。

次に原告は、第二の買収計画についての原告の異議申立に対し、被告田無町農業委員会が二年余の間決定を与えずに漫然と日を送つたというが、それには相当の理由がある。

まず、本件第二の買収計画が定められる前、原告は後藤新吾を債務者として、第二目録の土地全部と、八〇三番地畑二反六畝二十四歩、八〇四番地の甲畑二反七畝二十五歩、八〇四番地の乙畑二畝十六歩、八二七番地のハ二畝十五歩、八一八番地のロ畑四畝二十五歩とについて、八王子簡易裁判所に不動産仮処分命令を申請し(同裁判所昭和二三年(ト)第一一号事件)、昭和二十三年五月七日「前記農地に対する後藤新吾の占有を解き東京地方裁判所八王子支部執行吏に之が保管を命ずる。執行吏は右土地並びに地上に栽培せる茶の木並びにその間作たる農作物については、土地の現状を農作以外に変更しないことを条件として、申請人にその管理を命ずることを得。但し執行吏は適当な時期にその採取せしめた茶の葉を処分して、これより得た収益金を保管すべし。」という内容の仮処分命令を得、翌日その執行をした。これに対し後藤新吾は、特別事情による仮処分取消の申立をしていたので、被告田無町農業委員会は、第二の買収計画についての原告の異議申立に対しては、その結果を待つて決定を与えるつもりでいた。一方すでに進行していた第一の買収計画についての昭和二二年(ヱ)第四八号事件は、昭和二十三年九月十四日職権で戦時民事特別法による調停に付せられ、回を重ねること十数回に及んだが、昭和二十四年十二月三日遂に調停は不調とされた。被告田無町農業委員会は、第二の買収計画についても、第一の買収計画と同様に処理するつもりで、調停の経過を見ていたのである。その後前記仮処分取消事件の控訴事件である東京地方裁判所昭和二三年(レ)第二八号、(レ)第三一号事件において、昭和二十五年六月五日後藤新吾が勝訴の判決を得、同月二十二日前記仮処分の執行が取り消されたので、被告田無町農業委員会はようやく結論を得て、昭和二十五年八月九日異議棄却の決定を与えたのである。

かような経緯で異議申立とこれに対する決定との間に二年余の期間がおかれたのであり、被告田無町農業委員会は漫然とその期間を徒過したのでもなく、買収計画を維持する意思を棄てたわけでもない。

以上のように、本件第一および第二の買収計画には原告のいうようなかしはなく、いずれも適法なものである。

なお後藤新吾は本件土地のほかに一町歩余の農地を耕作している専農であり、原告は保育園の教師を本業とし、新吾から不法に取り上げた本件土地の一部を事実上耕作している兼業農家である。

かように述べた。

被告東京都農業委員会訴訟代理人は、両事件について被告田無町農業委員会と同一の判決を求め、次のとおり答弁した。

原告が昭和十年六月中買い受けて所有権を得た第一および第二目録の各土地について、被告田無町農業委員会が第一および第二の各買収計画を定めた日時、第二の買収計画の公告の日およびその縦覧期間、右両買収計画に対して原告が被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが、いずれも申立を棄却されたこと(第二の買収計画についてはその各日時の点も)、更に原告が被告東京都農業委員会に訴願をしたが、それはいずれも棄却されたことおよびその各日時、各裁決書謄本が原告に送達された日時、以上について原告の主張する事実は、いずれも認める。その余の原告主張の事実はすべて争う。

本件第一および第二の買収計画は、いずれも昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとずいた遡及買収計画である。右基準日当時原告の住所は横浜市保土ケ谷区上川井町坂下谷八四三番地に在り、原告は昭和二十二年五月三十日に本件土地のある現住所に移転したのである。そして後藤丑太郎の長男新吾は、昭和十八年三月頃原告の承諾を得て、本件土地における芝生の栽培をやめ、これを堀り起して耕作をはじめ、昭和二十年三月頃までに開墾を終えた。その前後を通じて、新吾は本件土地使用の謝礼として相当量の農作物を原告に提供し、また供出もして来た。このことについては原告から異議が出たこともなく、新吾が本件土地を耕作しているのに対し、原告は指示監督をしたこともなかつた。この関係は昭和二十年十二月二十三日当時もかわりなく、原告と新吾との間には、新吾が開墾をはじめた昭和十八年三月頃から後、右基準日当時においても、本件土地について使用貸借契約があつたものとみるべきであり、本件土地は自創法第二条第二項の小作地にほかならなかつた。

されば、被告東京都農業委員会は、被告田無町農業委員会が昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとずき、本件土地を不在地主たる原告の小作地として第一および第二の買収計画を定めたことを相当と認めて、原告の各訴願を棄却したのである。

また、第一の買収計画については、被告田無町農業委員会は買収計画を定めた昭和二十二年六月十七日適法な公告をしており、第二の買収計画については、原告の異議申立に対する被告田無町農業委員会の決定が遅延した理由は、同被告の主張するとおりである。なお自創法第七条第三項が、異議申立に対する決定をすべき期間を定めているが、これは単なる訓示規定であつて、これを守らなかつたからといつて、買収計画の効力が動かさるべきものではない。

かように本件第一および第二の買収計画ならびにこれらについての訴願棄却の裁決には、何等原告のいうようなかしがなく、適法なものである(立証省略)。

三、理  由

別紙第一および第二目録の土地が、いずれも昭和十年六月中原告が買い受けて所有権を得た土地であること、第一目録の土地について、被告田無町農業委員会が昭和二十二年六月十七日第一の買収計画を定め、原告がこれについて被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが棄却されたので、昭和二十二年七月二十八日被告東京都農業委員会に訴願したところ、昭和二十二年八月十八日附で訴願棄却の裁決を受け、その裁決書謄本が同年九月四日原告に送達されたこと、第二目録の土地について、被告田無町農業委員会が昭和二十三年六月十九日第二の買収計画を定め、同日その旨の公告をして、法定の書類の縦覧期間を同月二十日から二十九日までと定めたこと、これに対し原告が同年六月二十九日被告田無町農業委員会に異議の申立をしたが、昭和二十五年八月九日その申立を棄却され、更に同年八月十八日被告東京都農業委員会に訴願したが、同年十二月十九日附で訴願棄却の裁決を受け、同月二十二日その裁決書謄本の送達を受けたこと、右第一および第二の買収計画が昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとづいて、本件土地を不在地主の小作地として定めた遡及買収計画であることは、当事者間に争いがない。

まず第一の買収計画の公告が適法になされたかどうかについて。

甲第二十九号証、乙第三号証、乙第十八号証(いずれも真正にできたことに争いがない)と証人土方卯太郎の証言とを合せ考えると、被告田無町農業委員会は、昭和二十二年六月十七日第一の買収計画を定めるとともに、同日田無町役場の掲示場にその旨を掲示して公告し、同日から同月二十六日まで法定の書類を縦覧に供したこと、かつまた被告田無町農業委員会は原告に宛てて右買収計画を定めた旨の通知を発し、原告はこれを受けて法定期間内に異議の申立をしたことを認めることができる。

甲第二十九号証と証人内藤松寿、菱沼辰次郎、原告本人の各供述とを合せ考えると、同証人および原告等が被告田無町農業委員会に出向いた時、たまたま掲示場に公告が見当らなかつたことが認められるけれども、そのことによつて前認定が動かされるわけではない。従つて被告田無町農業委員会は第一の買収計画について適法な公告をしたというべきであり、その公告がないという原告の主張は理由がない。

次に第一の買収計画の目的たる第一目録の土地が農地かどうかについて。

甲第一号証、乙第一、第三号証(以上いずれも真正にできたことに争いなし)、乙第四号証の一(後藤新吾の第二回の証言によつて真正にできたことが認められる)、乙第十八号証(真正にできたこと争いなし)、証人平山トク、後藤新吾(第一、二、三回)、原告本人の各供述および検証の結果を合せ考えると、次のとおり認めることができる。

第一目録の土地はもとおおむね芝生栽培地であつて、後藤丑太郎(昭和二十三年一月二十日死亡)とその長男新吾が維持管理(植付、施肥、刈込、売却等)に当つていたが、昭和十八年春頃原告の承諾を得て、これを堀り返して畑に変えはじめ、昭和二十年春頃までに大部分を畑に変えて麦その他の作物をつくつていた土地であり、遡及買収の基準たる昭和二十年十一月二十三日当時もその大半は畑であつた。

かように認めることができる。されば第一目録の土地は、全体として農地と認め遡及買収の対象とするに支障がないのみならず、芝生栽培を目的とする土地であつても、肥培管理を行つて収益を挙げていれば、耕作の目的たる土地として、自創法の適用上これを農地と認めるに妨げがないのであるから、第一目録の土地は農地でなく、自創法による買収の対象にならないという原告の主張は理由がない。

次に原告は不在地主であつたか(第一、第二の買収計画を通じて)。

甲第一号証、甲第四号証(弁論の全趣旨により真正にできたと認められる)、甲第五号証(真正にできたことに争いなし)、甲第二十九ないし三十二号証、甲第三十五号証の二(以上いずれも真正にできたことに争いなし)、乙第一号証、乙第四号証の一、乙第五、十四、二十一号証(真正にできたことに争いなし)、乙第二十二号証(原本が存在しかつ真正にできたことに争いがない)、証人矢郷三郎、内藤熊喜、後藤タケ、内藤松寿、後藤新吾(第一、二回)の各証言および原告本人の供述を合せ考えると、次のとおり認めることができる。

原告が本件土地を買い受けた昭和十年六月当時、原告の父内藤熊喜は東京都新宿区下落合に居住し(当時目白の本宅と呼ばれていた)原告は父の許から某女子大に通学中であつて、本件家屋を別荘として時々泊りに行つた。昭和十二年に学業を終えた原告は、昭和十五年十一月本件家屋で結婚式を挙げ、ここに住むことになつたが、夫が外交官であつたので間もなく夫とともに中国に渡り、昭和十六年中に帰国して目白の本宅に落着き、その後入院して出産した。その後原告は、親戚知人の別荘等に移り住んで、永く同じ場所にいたことはなく、昭和十八年十月頃から同年十二月頃まで本件家屋に居住していたところ、その頃本件土地一帯が疎開区域に入れられたため、横浜市保土ケ谷区上川井町坂下谷八四三番地の父熊喜所有の別荘に日常生活に必要な家財道具をとりまとめて疎開した。右疎開先において原告は、はじめ農家の耕作を手伝つていたが、その後二町五反歩位の田畑を牛馬を使つて自ら耕作して生計を立て、かつ諸物資の配給も同地で受けていた。一方原告は再び本件家屋に戻ることあるを予想し、余分の家具什器等を残しておいて、後藤丑太郎に本件家屋の管理を依頼し、また昭和十九年四月中頃から聖母病院医師大越喜一郎にその離れを貸しておいた。しかし原告は疎開中本件土地家屋は殆んど交渉を絶つていたため、終戦後本件家屋に帰ろうとしたところ、そこに丑太郎一家をはじめ丑太郎が原告に無断で入れた数家族約十六名の疎開者等が住んでいて、直ちに移転することができず、昭和二十一年五月中ようやく本件家屋に帰つて来て、同年六月十日田無町に転入手続を終えた。そして同年秋頃、丑太郎に管理を託していた(この点は後に明らかにするとおり)本件土地の一部八〇五番地を返してもらつて農耕をはじめた。なお、原告は前記疎開先においても合計四町一反歩余の田畑を所有していて、はじめは在村地主と認められてその買収を免れたが、その後右のとおり本件土地のある田無町に転住して不在地主となつたため買収されるに至つた。

かように認めることができる。甲第三十五号証の二、乙第一号証、乙第四号証の一、乙第二十一、二十二号証の記載内容および証人矢郷三郎、土方卯太郎、後藤タケ、後藤新吾(第一、二、三回)の各証言中右認定に反する部分は採用することができない。

自創法による農地買収の関係において、農地所有権者の住所が多数ありとすることは、同法の目的からみて妥当でなく、農地所有者の住所は単一である、としなければならない。そして或る特定の場所が或る農地所有者の住所かどうかを決定するについては、その所有者がそこに住所を置く意思があつたかどうかということは独立の要素となるものではなく、そこに生活の本拠と認めるに足りる客観的事実があることを必要とする。そして今次の大戦中、疎開生活を余儀なくされていた者が、終戦後再び元の住居に帰つた場合に、その間住所の移動がなかつたと認めるのを相当とする場合もないわけではない。しかしさきに認定した事実によると、原告が疎開前においても、本件土地に生活の本拠を定めていたとみるべき根拠は乏しく、横浜市保土ケ谷区上川井町の別荘に疎開後は、同地に相当期間定住する意図をもつて本格的農耕をはじめ、生活の方針を定めたのであり、従つて原告が昭和十八年十二月頃右土地に疎開後昭和二十一年五月本件土地に帰るまでの間、その生活の本拠は右疎開先にあつたと認めるのが相当である。

原告が疎開するに当り、再び本件家屋に立戻ることあるを予想して、不要の家具什器類を本件家屋に残しておいたことは右認定の妨げになることではなく、また原告のいうように、原告が疎開中も、神社、学校等の寄附金を納めたりして本件土地の地元居住者と同様に扱われていたことは、これを認めるに足る証拠がなく、他に右認定を動かし、原告の住所は、疎開中も依然として本件土地にあつたことを認めさせるに足りる証拠はない。されば、原告は遡及買収の基準日たる昭和二十年十一月二十三日当時は、本件土地の不在地主であつたのである。

次に本件土地は小作地であつたか(第一、第二の買収計画を通じて)。

甲第六号証の一、二(後藤新吾第一、三回の証言により真正にできたことが認められる)、甲第七ないし第十号証(原告本人の供述によつて真正にできたことが認められる)、甲第十三号証(弁論の全趣旨により真正にできたと認められる)、甲第十四号証の一ないし三(その一、二は証人内藤熊喜の証言により、三は弁論の全趣旨により真正にできたと認められる)、甲第十五号証(原告本人の供述により真正にできたと認められる)、甲第十六号証の一、二(後藤新吾第一回の証言によつて真正にできたことが認められる)、甲第十七号証の一ないし三(弁論の全趣旨により真正にできたと認められる)、甲第十八号証(証人内藤松寿および後藤新吾第三回の証言によつて真正にできたと認められる)、甲第十九号証の一ないし十(弁論の全趣旨により真正にできたと認められる)、甲第二十号証(後藤新吾第三回の証言によつて真正にできたことが認められる)、甲第二十一号証の一、二(その一は弁論の全趣旨により、その二は後藤新吾第三回の証言によつて真正にできたと認めることができる)、甲第二十二号証の一ないし四、甲第二十三、二十四、二十五号証、甲第二十六号証の一ないし四、甲第二十七号証の一、二(以上いずれも弁論の全趣旨によつて真正にできたと認められる)、甲第二十八号証の一ないし四(後藤新吾第二、三回の証言によつて真正にできたと認められる)、甲第二十九、三十八、三十九号証(いずれも真正にできたことに争いがない)、乙第十一号証の一ないし三、乙第十二号証の一ないし十二、乙第二十五号証(以上真正にできたことに争いがない、但し乙第二十五号証の作成日附の部分を除く)、証人矢郷三郎、大谷盛太郎、平山トク、後藤タケ、内藤熊喜、内藤松寿、後藤新吾(第一、二、三回)の各証言および原告本人尋問の結果を合せ考えると、次のとおり認めることができる。

原告は、昭和十年六月中前所有者望月政友から、本件第一、第二目録の土地およびその北側に続く八〇三番地、八〇四番地甲乙の畑、八二六番地の宅地とその上にある本件家屋その他周辺の数筆の土地合計約三町歩を買い受けた。当時これらの土地は後藤丑太郎外五名位の小作人が耕作していたが、原告はこれら小作人を離作させることを条件に右土地を買い受けたので、買い受け後間もなく従前の小作人等との小作関係をすべて解消して、後藤丑太郎を本件家屋の一部に無償で住まわせてその管理を託すとともに、本件土地を含む右土地の管理を託した(丑太郎は望月政友所有当時は、本件土地中八〇五番地と八〇六番地を小作していた)。右土地は原告名義で買つたのであるが、売買に関する交渉手続や丑太郎に右管理を託するについての事実上の処理は、すべて原告の父内藤熊喜の手によつて行われた。そして原告は昭和十一年四月頃前記本件土地の周辺の土地の大半を他に売り渡し、残りは八〇三、八〇四の甲乙、八二六の土地および本件土地がその大半であつた。当時八〇三、八〇四の甲は茶畑、本件土地はおおむね畑であつたが、畑として耕作したのでは十分な収益を得ることができないというので、熊喜が丑太郎と相談した結果、昭和十二年から畑地を芝生に変えて芝生を栽培することになり、そのため必要な種苗代、人夫賃等の経費や、茶園の維持手入に必要な経費等はすべて原告方で負担することとし、丑太郎にこれら芝生、茶園等の実際の経営管理を託すことになり、本件土地およびその他の土地のその後の経営方針の大綱が定められた。同時に原告方では、父熊喜或いは母内藤松寿所有名義の南多摩郡調布町国領、同郡飛田給、目黒区等所在の数筆の土地についても、本件土地等と同じくこれを芝生ないし茶園として経営することにして、丑太郎にその管理を託した。また丑太郎に管理を託した土地および本件家屋等の税金は、丑太郎が原告等に代つて納入することになり、丑太郎をその納税代理人として届出た。そして丑太郎が以上の受託事項を処理するについて、原告から丑太郎に「流水帳」と題した大福帳(甲第十八号証)を渡し、これに一切の必要経費、代納税金、芝生や茶の売上金等を詳細に記入して毎年その収支計算を行うこととされて、丑太郎は昭和十二年度からこれを実行に移した。

他方丑太郎に対する報酬について両者間に明確な定めはなかつたけれども、第一目録の土地中八〇五番地の一部約一反歩は丑太郎が自由に耕作することを許され、そしておおむね右収支計算の結果得られた利益金の半額を丑太郎が取得して来た。

昭和十六年原告の父熊喜が中国に渡り、次いで原告も中国に渡つた後は、丑太郎は右流水帳に収支の大要を記入したのみであつたが、毎年末における精算額は明らかにしておき、原告が中国から帰つた後も同様であつた。そして原告と丑太郎間の精算関係は必らずしも正確に行われたわけではなく、売上金を得るごとに原告の許に入金されたこともあり、或いは一部精算未了の分もあつたけれども、大要は右のとおりであつた。なお流水帳の記入は丑太郎に代つて、その家業に従事していた長男後藤新吾がしていた。

昭和十八年春頃になつて、当時食糧事情が悪化したため、農業会から芝生地を畑に変えるよう勧められた丑太郎方では、新吾が原告の承諾を得て、それまでおおむね芝生栽培地として経営していた本件土地を畑に変えはじめ、逐次開墾して昭和二十年春頃までに殆んど畑に変えてしまつた。なお新吾は原告に本件土地を畑に変えることの承諾を求めたとき、本件土地の小作料を定めてもらいたいと申し出たが、原告は土地の態様を変えたところで従来の原告、丑太郎間の関係に変りはないと考え、また当時まだ中国にいた父熊喜の指示を受ける必要ありとしてこれに応ぜず、本件土地について特に小作料のとりきめはなされなかつた。

本件土地を畑に変えはじめた丑太郎、新吾等は、これに適宜穀類蔬菜等を作付けし、その収穫物を丑太郎ないし新吾名義で供出して供出代価を受け取つて来たが、当時前記の疎開先に疎開中であつた原告は、本件土地の耕作関係について何等指示を与えたこともなく、また本件土地の収益についての精算も行われなかつた。

そして原告は昭和二十一年五月本件土地に帰つた後、食糧自給のため丑太郎から本件土地中八〇五番地の返還を受けて自ら耕作をはじめ、次いで昭和二十二年四月三十日丑太郎に対し本件土地管理契約解除の意思表示をした。

かように認めることができる。乙第一号証、乙第四号証の一の記載内容および証人土方卯太郎、後藤タケ、平山トク、後藤新吾(第一、二、三回)、伊藤喜助の各証言中右認定に反する部分は採用することができない。

右認定の事実によると、本件土地に関し、原告と丑太郎との間に当初から小作契約があつたことはとうてい認めることができず、原告は本件土地を芝生栽培地として経営するについて、その管理を丑太郎に託し、その報酬として収益の半額を丑太郎に与え、また一部の自由耕作を許していたにすぎないのである。その間丑太郎が納税代理人として納入した原告の負担に帰すべき本件土地家屋の税金等について未精算の分があるにしても、それは右管理契約内容の一部の履行が終つていないことを示すだけであり、これを以て本件土地の小作料に代るものということはできない。また、乙第七号証(後藤新吾第一、三回の証言により真正にできたと認められる)と証人土方喜太郎、後藤新吾(第一、二、三回)の証言とを合せ考えると、丑太郎方では昭和二十一年六月頃から同年十一月頃までの間馬鈴薯、甘藷、押麦、野菜等を相当数量原告方に与えたことが認められるけれども、同証人等の証言中右農作物は丑太郎方で本件土地の小作料として持参したものであり、原告もその主旨で受け取つたとの部分は信用することができない。他に本件土地に関する原告と丑太郎間の管理契約内容が後になつて変り、賃貸借契約ができたと認められる証拠はない。

被告等は、昭和十八年春頃新吾が原告の承諾を得て本件土地を開墾しはじめた後、本件土地について原告と丑太郎ないし新吾との間に使用貸借契約ができたともいう。

原告が疎開中、新吾等が本件土地を畑に変えはじめた後殆んど何の指示も与えることなく、新吾等がその一存で本件土地を耕作し供出を行つていたことは前認定のとおりであるが、当時は今次大戦の最中であつて、すべての社会生活関係が必らずしも正常な状態になく、人々は身辺のことがらを処理するに追われてその日暮しの状態であつたことは公知の事実であり、原告としても、疎開先の横浜市保土ケ谷から遠隔の本件土地について必要な指示を与えることは困難な状態にあつたことは、容易にわかることであるし、またさきに丑太郎等に対し事実上の指示監督をして来たのは原告の父熊喜であつたのであるから、原告が疎開中本件土地を放任の状態においたこともやむを得ないというべきであり、更にまた原告としては、本件土地を畑に変えたところで、従前の丑太郎との関係がそのまま継続するものと考えていたのであるから、本件土地の態様が変つたことからただちに本件土地に関する契約内容が変更されたと解することはできない。そして丑太郎等が本件土地の収穫から供出をして、その名義で供出代価を受け取つていたことは、丑太郎等が勝手にしたことであつて、そのために原告と丑太郎ないし新吾との間に本件土地の賃貸借ないし使用貸借関係が生ずるわけのものでもない。のみならず、乙第二号証、乙第四号証の二(真正にできたことに争いがない)と証人土方喜太郎の証言と弁論の全趣旨を合せ考えると、丑太郎方では本件土地の外一町歩余の土地を耕作していたことが認められるから、乙第八、九号証(真正にできたこと争いなし)によつて認められる丑太郎ないし新吾がして来た供出は、本件土地以外の農地からの収穫によるものが多く、本件土地の収穫も便宜これと併せてその名義で供出して来たものと推認することができる。

されば、原告と丑太郎ないし新吾との間に本件土地の使用貸借契約ができたという被告等の主張も理由がない。

以上のとおり本件土地は、遡及買収の基準日たる昭和二十年十一月二十三日当時も、その前後を通じても、自創法にいわゆる小作地に該当する土地ではなく、原告が丑太郎に管理を託していた自作地であつたのである。

してみると、昭和二十年十一月二十三日現在の事実にもとづき、本件土地をいずれも不在地主たる原告所有の小作地として定められた本件第一および第二の買収計画は、事実の認定を誤つた違法な買収計画であり、これを適法として維持した被告東京都農業委員会の訴願裁決もまた違法たるを免れない。

原告は第一の買収計画およびこれに関する訴願裁決について、いずれも右の違法を攻撃してその取消を求めるのであるから、第一の買収計画および訴願裁決は、その余の争点について判断するまでもなく違法として取り消すべきである。

次に原告は、第二の買収計画及びこれに関する訴願裁決については、その無効確定を求めているから、右認定のかしが無効原因に当るかどうかを更に検討しなければならない。

一般に行政処分が無効とされるためには、その処分に存するかしが客観的に重大であつて、しかもそれが外観上明白な場合たることを要すると解するのが相当である。原告所有の自作地と認むべき第二目録の本件土地を小作地なりと認定して定められた第二の買収計画のかしが、自創法の適用を誤つた重大なものであることは疑いを容れないが、そのかしが外観上必らずしも明白でないことはさきに認定した事実関係から容易にうかがい得るところである。

されば、第二の買収計画に前記のかしが存するからといつて、それが当然に無効とはいえないのであるが、原告は更に他の無効原因として、原告の異議申立に対する被告田無町農業委員会の決定が法定の期間をいちぢるしく徒過したことを挙げている。

しかし原告の異議申立に対し、被告田無町農業委員会が法定の期間をいちぢるしく経過してから決定を与えたからといつて、第二の買収計画及び被告東京都農業委員会の訴願裁決の効力に影響を与えるものではない。市町村農業委員会が異議申立に対して決定を与えるべき期間を定めた自創法第七条第三項の規定は、行政庁の事務処理上の訓示的な定めをしたにすぎないものとみるべきであるばかりでなく、仮りに右遅延が被告田無町農業委員会の本件異議棄却決定の効力に何らかの影響を与えることありとしても、遡つて本件第二の買収計画の効力を左右する理はなく、また上級行政庁として第二の買収計画の適否につきした被告東京都農業委員会の訴願裁決の効力を動かす道理もないからである。

その他本訴にあらわれたすべての証拠を検討してみても、他に第二の買収計画および訴願裁決を無効ならしめるかしを見出だすことはできない。ひつきよう原告は、第二の買収計画および訴願裁決についても、法定期間内に出訴してその取消を求めることができたに止まるのである。

以上の理由によつて本件第一の買収計画およびこれに関する訴願裁決の取消を求める請求(昭和二二年(ヱ)第四八号事件の請求)を認容し、第二の買収計画およびこれに関する訴願裁決の無効確定を求める請求(昭和二六年(行)第二七号事件の請求)を棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟特例法第一条、民事訴訟法第九十二条本文、第九十三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 新村義広 入山実 石沢健)

(目録省略)

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